境界線
つらいんだろうなぁ、苦しいんだろうなぁ、大丈夫かなぁ、無理してるのかなぁ。
彼を見ていると、瞬間的にそう思う時がある。
たいてい、そんな時は、右心室あたりがドクンと痛む。
中学生だったら、恋と勘違いしてしまうような痛み。
でも、似て非なる痛み。
あの日が、境界線だったんだ。
たまたま当たったボイワ。
仕事繁忙期じゃないし、ヤンファイじゃないけど、いろいろ見てみたいし、と応募したボイワ。
1人でやるイベントだから、推しのファンばかりが来るということも、よりパーソナルな表情が見えることも、よく分かっていないまま、私は、境界線に立っていたんだ。
ボイワが始まった。
彼は近況を客席に向かって話していた。持ち前のセンスと押すのも引くのも巧みなコールアンドレスポンスは、雪解け水のようにさらさらとシアターの空気感をほどかしていった。
しかし、ほどけた空気感は、一瞬で緊張感に変わった。
突然、客席の、ある1人から、ヤジが飛んできたのだ。
ほんとに突然だった。
でも、彼は動じてない素振りで、飛んできたヤジをさらりと笑いながら返した。一瞬の緊張感に一瞬の間を置かないその返しのなんとスマートだったことか。
しかし、同じ人からのヤジは続いた。
ヤジとスマートな応酬が、3ターン続いた頃だろうか。
彼は、その後、ヤジの相手をすることはなくなった。ヤジもなくなっていった。
当の私は、突然のヤジに気が動転していた。怒り心頭だったと言っていいだろう。
彼とスタッフと客席で作り上げようとしていた世界を、突然壊すなんて。土足で踏みにじるなんて。ありえない。
彼は、おそらく、当初計画どおりに企画を進行していった。客席も、なんとか元の空気感を作り直そおうと、ステージに応えていこうとしていた。私も、動転した気を必死に隠しながら、なんとか笑みを浮かべていた。
1時間のボイワが終わろうとしていた。
彼のボイワは、最後に客席全員にハイタッチをして、はけていく、という終わり方だ。
どんな顔をしてハイタッチすればいいだろう。
そんなことばかり考えていたら、順番が来てしまった。
引きつった笑みで彼の顔を見ると、微笑んでいるのに心が折れていた。あの優しい笑みで手を差し出してくれているのに、心は閉ざしていた。
そんな気がした訳ではなく、私の確信でもなく、ただただ、心が折れた彼がいた、という事実。
ヤジとの応酬を止めた瞬間、彼は心が折れたのだと気づいた時に、どす黒い血がドクンと右心室から流れていった。
どんなふうに、帰ったかあまり覚えていない。
いつもは地下鉄に乗るのに、栄駅まで歩いたように思う。確か、最寄りの駅より5駅ほど前に降りた。歩いて、また歩いて、歩いて。あの1時間を反芻しながら。
境界線を超えてから、彼の表情ばかり注視するようになった。
あのふんわりと柔らかい笑顔を見ると、心が折れた微笑みを重ねずにはいられなかった。
右心室が痛む。
痛むことは、私に安心を覚えさせた。
この痛みは、あの日、背負った私の原罪。
今年のツアーの仙台で、彼は「ボイメンを辞めたいと思ったことは一度も無い」と言った。
そうなんだ。そうだったんだ。
ゆとりが生んだ風雲児。ゆとりという言葉に目が向きやすいけれど、そう、彼は風雲児。
痛みをともなうならば、むしろ本望だ。
もう、振り返っても境界線は見えない。